現代アートに触れる前に理解しておきたいこと

現代アートってなんなんだ?? 幼稚園児の落書きみたいな絵、部屋にあったらゴミと間違えて捨ててしまいそうなオブジェ・・・・・・ だが現代アートには、“観かた”があるという。それを知れば意味不明だった現代アートが楽しめるようになっているはずだ。

美しくないアート

これがアート?? 全然美しくないじゃん!!
現代アートに触れた人の多くがこのように感じるだろう。そしてそう感じた人の中には、きっと現代アートが美しく見えないのはきっと自分に芸術的なセンスが欠けているからだ、と思ってしまう人もいるに違いない。だが安心されたい。現代アートは美しくない。もし美しくみえたとしても、それは作品の意図するところのものではない。
なにをもって美しいとするか、という問いは哲学の主要な問いでありー言い換えれば永遠に答えのでない問いでありーひとくくりに「現代アートは美しくない」と断じてしまうことには危険があるが、だとしても美しいということは現代アートの主要な関心ではないのだ。

知的な戯れとしての現代アート

意味と批判のアート

美しくないアート?? それってなんの意味があるの? 現代アートが美しくないということが分かったとき、このような疑問が頭をよぎるに違いない。
なんの意味があるのか、という問い。現代アートで非常に重要になってくるのが、この“意味”だ。この作品の”意味”はどこにあるのか考えるということ、それが現代アートのもつ第一の意味である。

例えば上の画像を見てほしい。小便器だ。しかし同時にアートでもある。これはマルセル・デュシャンという20世紀前半のフランスの芸術家の「泉」という作品だ。ふむふむ、アートというからにはマルセルという人が手作りで彫った便器か何かなのかな、と思う人がいるかもしれない。だがそれも違う。これは普通に工場で大量生産されている便器に、デュシャンがサインを施しただけのものである。さらに言えばそのサインすらも本名ではない。
ではなぜこれがアートたりうるのか。まったく美しいわけでも、技巧的なわけでも、それを観る我々を感動させてくれるわけでもない、ただのどこにでもある便器がどうして20世紀の最も偉大な芸術作品として称賛されているのだろうか。そんな疑問に対して我々はこのように答えたい。なぜなら、それが現代アートであるからだ、と。強い意味を持ったものになるからだ、と。
単なる小便器、ふつうにどこにでもあるようなそれが、美術館で芸術として展示されることによって、「芸術とはなんなのか」ということを考えさせる強い意味を帯びることになる。「アートは美しくあらねばならぬのか、そのアーティストの手によって作られなければならないのか。なぜトイレはアートではないのか。」そういった批判性が生まれてくることになる。

現代アートの意味を理解するにはー何を批判しようとしているのか、どんな意味を持っているのかー

そしてその批判の対象はもちろん芸術のあり方のみにはとどまらない。上の画像をご覧いただきたい。こちらは先日グラフィティアートの記事でも紹介させていただいたバンクシーというアーティストの作品だ。パレスチナ人の自治区、ガザに描かれたものである、ということを考慮に入れれば、この作品がガザ侵攻を批判しているものだということはたやすく理解できるだろう。
じゃあなんで子猫の絵が描かれているのだろう? この子猫にはなんの意味があるのだろう?

確かに現代アートが“意味”を、ないし“批判性”を含んでいるということはわかった。じゃあどのようにすればその意味や批判性を汲み取ることができるのか。どうすれば子猫がパレスチナ人自治区ガザに描かれる必然性を理解できるのだろうか。
答えを先に申しあげよう。コンテクストにおいて我々はそれを理解するのだ、と。作品の背景、その作品が成立しうる文脈において理解するのだ、と。

例えば上のバンクシーの子猫のコンテクストにはSNSがある。ツイッターやフェイスブックをやっている人なら、可愛らしい子猫の画像が拡散されるのをよく目にするだろう。
バンクシーはこのように語る。「地元の男性がやって来て『これはどういう意味なんだ?』と聞いてきたので、こう説明した。自分のウェブサイトに写真を投稿して、ガザの破壊された姿に焦点を当てたいのだ、と。インターネットの人たちというのは、子猫の写真しか見ないものだから。」と。
爆撃によって倒壊した家屋に子猫が描かれるとき、それは「インターネットの発達によって情報を無限に手に入れられるようになった我々が、それでいてなお目に心地よいものにしか関心を向けない」という態度を痛烈に批判していることになる。

知的な戯れ

かように現代アートは、それぞれのコンテクストに基づいた意味、ないしは批判として我々の前に現れる。そしてそれは我々にとっては知的遊戯だ。
なぞなぞを解くようにして作品に込められた意味を解釈してみるということ、それは自分のこれまでの思索の結果であるとともに、あらたなる思索の端緒となるだろう。

では現代アートは所詮自分の中だけで完結する自己満足的な遊びでしかないのだろうか。だとしたらはたしてそれにはなんの価値があるのだろうか。
暇つぶしのために消費されるバラエティ番組の、精々は上位互換ということになりはすまいか。

我々の認識を塗り替えるアート

現代アートとは単なる遊戯ではない。そういう知的な快楽ももちろんあるが、しかしながらそれは芸術なのだ。我々の認識を塗り替えるような、世界の見かたを変えるような破壊と創造の営みなのだ。

このように大上段に構えても疲れるので、ひどく低俗な例を出してみようとおもう。

上の画像は、廃校になった小学校を会場として行われた2013年の瀬戸内国際芸術祭に展示された会田誠の「貧乳山」という作品だ。物凄くくだらないし、高尚さや芸術性のかけらもない、本当に小学生みたいな発想で作られたものだ。
だがそのあと会場からグラウンドにでたとき、あなたは実際に貧乳山を目にするのである。

きっと我々は会田誠が「貧乳山」なる落書きを残さなかったら、この山を貧乳だと思うことも、それどころかこの山に意識を向けることすらなかったであろう。
だが一度このようにして「貧乳山」という形でそれが提示されるともはやこの山は貧乳にしか見えなくなるのである。
これが芸術である。これが芸術の持つ力である。そしてこの認識を塗り替えるということ、世界の見かたを完全に変えてしまうということ、それはあらゆる時代のあらゆる芸術がもつ普遍的な事実だと言い切ってしまってよいだろう。
現代アートは意味不明だ。こんなもんが芸術なのかよ、とゲラゲラ笑う人もいるに違いない。だがそんな意味不明なものが、笑われながらも芸術として受容されているということは、先ほどのデュシャンの「泉」が、名前がペンで走り書きされただけの小便器が、まさに我々の芸術に対する見方を変えてしまったということを意味しているのだ。

最後に

現代アート、それは現代に生きる我々のための芸術である。今回の記事では現代アートを観るときに、そのコンテクストがなんなのか、それによってどういう意味や批判性が生じてくるのか、というところに着目すると楽しめるということについて主に書かせていただいた。
また、貧乳山によってアートのもつ力の大きさも実感していただけたのではないかと思う。

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