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「Schweiz 日本 Japan スイス」展

6月19日より、カームアンドパンクギャラリーにて「Schweiz 日本 Japan スイス」展がスタートする。本展は、スイスと日本の国交樹立150周年記念をきっかけとした両国のデザイナーを結ぶ文化貢献プロジェクトとして昨年、スイス・ルツェルンで開催された展覧会「ヴェルトフォーマット・ポスター・フェスティバル」の関連イベントだ。 前世紀から、日本とスイスのデザイナーは、ポスターデザインにおいて多大なる貢献をしてきた。そして彼らの考え方やメソッドは、世界中のヴィジュアルコミュニケーションに強い影響を与えてきたといえるだろう。今回は、日本とスイスから、それぞれ6組の著名デザイナーが 「エクスチェンジ」というキーワードのもとデザインしたポスターを展示。現代のポスターデザインに関する対話を進めるだけではなく、双方のデザイナーの考えや関心がどのように異なり、互いに関係しているのか探ることを目的とした。

引用: www.shift.jp.org

ポスター広告の歴史

ポスター、それはなんであるか。ノイズのような政治家のビラ(明るい未来を云々)か、JRの駅に貼られている旅行需要を喚起する広告か、あるいは男子学生の部屋の壁に貼り付けられている扇情的なグラビアアイドルか。
なんであれそれは大量生産、大量消費社会の象徴だ。

今日我々が目にするようなポスターは、19世紀後半のフランス、いわゆるベルエポック(良き時代)のパリにおいて生まれたものである。
単に掲示という側面に焦点を当てるなら、古くは古代ギリシャの時代からポスターがあったと主張することは可能だが、我々が今日知るようなカラフルで印象的なポスターはカラー印刷(彩色石版)が可能になった19世紀半ば以降に生まれたものであった。

もちろんそうした上のようなポスターは現代同様、広告のために作られたものだ。
しかし、単なる広告であるはずのポスターは、その目的を果たすために、言い換えれば大衆の目を引くために、鮮烈な色遣いや、伝統的な構図の模倣等によって芸術性を高めていくことになったのである。
その結果としてポスターは市民の間で大流行し、ベルエポックの時代「街角の美術館」とさえ呼ばれるようになったという。

かつて芸術は一部の金持ち、好事家のものでしかなかった。王侯貴族や金満僧侶が自らの権威づけのために利用するものですらあった。
ポスターの歴史的な意義は、それを大衆のもとに広く届けた点にある。印刷技術の向上によって、ポスターという形で、だれもが芸術を享受することができるようになったのであった。

もちろんそれは芸術自体をも変えることになる。ポスターでだれもが芸術に触れることができる時代、キャンバスの中におさめられた絵画の一回性は果たしてどこまで価値をもてようか?

メディアとポスター、メディアとアート

アート、芸術は常にメディア(=媒介、ここでいうメディアはテレビのようなマスメディアではない)だ。印象派であれ、ルネッサンス絵画であれ、あるいは音楽であれ、我々は芸術を通してなんらかのメッセージを受け取る。
(メディア、という厄介な概念を定義するために紙幅を割くほどの余裕はないから、ここでは簡潔に「媒介するもの」とだけ定義する。)

わかりやすいのが宗教画だ。上の絵画はミケランジェロの「最後の審判」である。
バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂に描かれたこの巨大な絵画が、圧倒的な崇高さ、神々しさを持っていることは万人の認めるところだろうが、しかしこの絵がそうした崇高さ、美しさを持っているのは、その絵画自体に依るのではない。それがキリスト教の神の霊的な至高性を、我々に「媒介」するメディアであるということに依るのである。

そしてまたポスター広告もメディアだ。ポスターは、商品の内容、メッセージを我々に媒介するメディアだ。
我々は映画のポスターをみて、その映画のエッセンスを受け取る。(映画自体もメディアだがそこまでは言及しない)あるいはJRのポスターを通じて、旅行の魅力を媒介される。
科学技術の発展によってさまざまな広告媒体が誕生した昨今でこそポスターの価値は薄れているものの、20世紀の前半くらいまで、広告とはほぼイコールでポスターであった。(あるいは新聞や雑誌等の広告、なんいせよイラストメインのもの)
道路沿いの壁や、駅の待合室や、雑誌や新聞、いたるところにこうしたポスターが飾られ、人々の慣れ親しむところになったのである。

ポスター広告が現代アートにもたらした影響

19世紀の終わりに成立したこのポスター広告という巨大なメディアは、芸術に対してきわめて大きな影響を与えることになる。

ポスターの登場は、芸術に二つの選択肢を提示した。ポスターと正反対のことを突き詰めるか、あるいはポスターの手法を突き詰めるか。すなわちメディアとしての抽象化と具体化である。

一つ目の抽象化はわかりやすいだろう。上の絵のようなわけのわからない、言い換えればメディアとして何を媒介するのかすぐにはわからないような芸術表現を作るということだ。
ポスター広告は一瞬で、かつ明瞭にメッセージを媒介しなくてはならない。道を歩いている人がふと見たときに、その商品が頭に残るようにしなければならない。
だから芸術が上の絵のように抽象化の道をすすむということは、それによってポスター広告との差異化を図れるということを意味する。

そして具体化とは、芸術自身がポスター的な表現に足を踏み入れるということだ。上の絵はかの有名なアンディ・ウォーホルの「キャンベルのスープ缶」という絵。本当にキャンベルのスープ缶をシルクスクリーンに映して並べただけのほぼポスターである。

こうした芸術、いわゆるポップアートと呼ばれるものは、メディアであるということ、広告的であるということ、つまり明瞭で一瞬でわかるということをひたすらに追求する。
だがこのように媒介であるということ、A→Bの、AとBをつなぐ矢印であるということを徹底して追い求めた結果として、明瞭なはずの、ポスター的であるはずのメッセージは、ポップアート絵画というメディアからは引き剥がされることになるのだ。

結局のところ、我々はアンディウォーホルの絵を見て、実際のキャンベルのポスター広告から受け取れるようなメッセージを受け取ることはないのである。(もちろんポップアートを観て、大量消費社会への批判云々のようなメッセージを見いだせないわけではないのだが)

そして、ここにおいて一つの逆説的な事実が立ち現われてくる。
ポスター広告的であることからとことん外れること、あるいは徹底してポスター広告的であるということ、この二つの正反対のアプローチは、しかしながらどちらも“脱ポスター広告化”を促すのだ、という事実が。

最後に

かようにポスター広告というメディアは芸術を侵食し、また芸術の側もポスター広告を侵食した。
そして今日、ポスターとアート、デザイナーとアーティストの境目は益々あいまいになっている。今回紹介した「Schweiz 日本 Japan スイス」展もその境界を行き来するような企画である。ポスターでありながらそれは広告ではなく、広告ではないのだけど、現代アートとも呼び難い。
今はメディアの時代だ、なんていうふうに言われることがある。インターネットやスマートフォンの出現によってその流れは加速しているし、今後現れるもののために、さらに加速させられるだろう。
ここらでポスターという古いメディアの、“現在”に触れてみるのも悪くない。

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編集部 三宅隆平

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