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ストリーミング元年としての2015年

この2015年という年、日本のストリーミング市場は一気に拡大するだろう。アップルがとうとう、アップルミュージックという形でストリーミング配信に乗り出したからだ。日本のスマホ市場における驚異的なiphoneシェア(なんと日本のスマホ使用者の七割がiphoneを使用している)を考えれば、ストリーミングは一気に身近なものになるだろうし、ガラパゴス化していた日本の音楽業界も変化せざるを得ない。

もちろん日本における特殊な音楽環境、すなわち

1.依然としてCD売り上げが高い水準を保っていること
2.それゆえ主要なレコード会社がストリーミングに対して消極的であること
3.さらにメジャーレコードのシェアが他国に比べて低く、版権上の問題が高度に入り組んでいること

を考慮に入れると、決してその道のりは平坦ではないだろう。

とはいえ、音楽業界における世界的なストリーミング市場の拡大の波は、疑問の余地なく日本にも押し寄せてきている。
CDはどうなるのか、アーティストの収入はどうなるのか、レコード会社の未来は? どのようなサービスがストリーミングに必要か?ストリーミングという巨大な黒船到来について書きうることやまほどあるに違いない。

しかしながら今回そういった題材は取り上げない。今回の記事の狙いは、ストリーミングサービスがどのような必然性のもとに生まれたのか、そしてそれがどのような変化をもたらすか、ということを百年単位の時代の変化の中で考察することにある。

ストリーミングは必然だ、なぜなら……

ストリーミングサービスの普及はもはや必然だ。なぜなら、それが時代の要請、潮流だからだ。日本におけるストリーミング元年であるこの2015年、僕らは改めてそれについて考える必要がある。

まず最初に「なぜストリーミングが必然なのか」という疑問を、より俯瞰的に、視座を高く持って問わねばならない。
短期的、近視的な見方をするなら、その疑問には以下のように答えることができるだろう。

1.スマートフォンが普及し、ネット回線に常時つなげるようになったから
2.さらに技術の向上に伴い、ネット回線速度が飛躍的に向上したから

しかしながら長期的な、10年、50年、100年単位の視座を確保するためにはより大きな時代の流れを把握しなければなるまい。

複製技術時代の音楽

その昔、いまより一世紀以上前、まだ録音技術すら存在しなかった時代、音楽(というより芸術全般)はライブでしか体験することのできない一回性の、唯一的な体験であった。
音楽を聴くために、人々は実際に音楽が演奏されている場所に足を運ぶ必要があった。音楽は決して人々の所有することのできるものではなかった。

やがて録音技術が発達し、レコードが生まれ、言い換えれば音楽が複製可能なものへと変化すると、人々と音楽の関係において、以下のような変化が生じてくる。

1.音楽の一回性、唯一性が失われていった
2.音楽を“所有する”ことがあたりまえになった
3.音楽の大量消費が可能になった

この流れはCDが生まれ、さらにitunesの到来によってダウンロード販売が一般的になるにつれ、日に日に徹底されていくことになり、そして今、音楽のストリーム配信が出現したことによって、それは行き着くところまで行き着いたかのように思われた。

音楽をいつでも、どこでも、どれだけでも聴けるようになったということは、音楽の一回性、唯一性が完全に喪われ、大量消費が加速するということを意味している。
さらに“所有する”ということの徹底は、結果として逆にそれ自体が解体されることを意味している。
そしてそうした徹底的に破壊は音楽を均質なもの、ユビキタス(偏在)的なものにしてしまう。
皆がそう考えるようになった。

音楽はこれからどこへ向かうのか -複製技術時代の音楽の終焉、至高の価値の復活


だとすると音楽の未来は、閉ざされた暗闇の中にしかないのだろうか?
単に業界としての未来云々だけではない。時に僕らに寄り添い、時に僕らを絶望の淵から救ってくれるものとしての音楽は失われてしまうのだろうか?
音楽は、ファーストフードやスナック菓子のような消費されるだけのものになってしまうのだろうか?

いや、そうではない。そうはならない。それどころか、そうした絶望的な未来とは正反対の現実がすこしずつ兆しているように思える。

以下のグラフをみてほしい。

これはそれぞれライブの公演数、売上額、入場者数の推移を示したグラフである。
一目みれば明らかな通り、ここ数年でライブの公演数、売上、動員数は飛躍的な上昇を見せており、今後も伸び続ける可能性が高い。

ストリーミングは、なるほど確かに音楽を、完膚なきまでに、「いつでも、どこでも、どれだけでも」享受できるものへと変えてしまうかのように思われた。所有が排除された結果として、純粋な形態としての消費だけが砂漠のように残されることになるかと思われた。

だがそうはならなかった。
音楽というものの変化はそんな次元にはとどまらなかった。
それは、いうなれば日常風景としての音楽体験とは真逆のものへの渇望を高めることになったのである。
すなわち一回性としての、“その時その場所だけ”しか体験できないものとしての音楽だ。
「いつでも、どこでも、どれだけでも」とは正反対のものとしての音楽だ。

ここにきて音楽は、itunesやCDはおろか、レコードすら存在しなかった時代に持っていた至高の価値を取り戻しつつある。
それは複製技術時代の終焉だ。
ライブでしか音楽を聴けなかった時代に人がライブに足を運んだのと同様に、今、ライブでしか聴くことのできない、得ることのできない体験を求めて人々がライブに足を運ぶようになっているのだ。

もちろんライブにおいても音楽の聴き方は変化していると言えるが(以下の記事を参照されたい)ストリーミングの発達、普及に伴って、これからますます、ライブの重要性は高まっていくことになるだろう。

今、時代は大きな節目の時期に入っている。過去に当たり前とされてきたあらゆる概念、システム、慣習が、軋みを上げながら変化に追い付こうと自己破壊・自己生成を繰り返している。

ストリーミングサービスは音楽におけるそれだ。ストリーミングが普及することによって、意識的か無意識的かは別として、僕らの音楽に対する見方は、そして音楽自体の在り方は文字通り180°かわることになるだろう。

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編集部 三宅隆平

脳髄を置いてきぼりにして走る

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