169万部突破『火花』、ピース又吉、芥川賞から見る文学の芸術性。

うんざりするほど、この手の芸能人による受賞をあれこれと騒ぎ立てる記事は溢れている。 それでも書くのは、アクセトリーなりに、ひいては自分なりに、この小説が芥川賞を取ったことについて一考深めたいからである。 そんなエゴみたいな衝動で書いた、芥川賞についての記事。気になる方はしばし、お立ち合いを。

どうして又吉が芥川賞なんだ?

そう思う人は多方面にいるだろう。
お笑い芸人も、同業の作家も、読み手である消費者も、
内容の出来や好み如何は別として、どんなバイアスがかかっていたにせよ、どこかでこのニュースに何故?と問いかけたのではないか。

芸能人がこの手の文学賞を取るケースは、以前にも過剰に報じられることがあった。
それにしても今回の場合はそのレベルが違う。何せ今の日本の文学賞の双肩をなす、芥川賞の首を取ったのだから。
大衆小説かつ中堅以上の作家の小説が受賞することの多い直木賞と並び、純文学かつ新人の作家の小説が受賞するこの賞は世の人々その多くが「すごいこと」だと認識している。

世間の注目度が高いだけに、色々な意見が飛び交う。

過剰なまでに美化した賛辞や、全てを否定するかのような悪評。小説に関係のない部分にまで、注目されるケースもある。
ネットという媒体によって、誰しも持論をつまびらかに語ることが出来るこの時勢、様々な意見が電子の海を駆け巡っている。

そのなかでも、
「権威ある文学賞にお笑い芸人が受賞した」
この事実だけを切り取れば、どうやら賞が持っていた権威の失墜を見る人もいるらしい。
けれどそれはやはり、浅はかなことだろう。過去の芥川賞受賞作家には
版画家の池田満寿夫氏、前衛芸術家の赤瀬川原平氏、劇作家の唐十郎氏、作家でありミュージシャン、映画監督や演出家も務める辻仁成氏、ミュージシャンから転身した町田康氏など、ある方向で「表現者」として活躍されていた方が受賞したケースはたくさんある。
そう考えれば、「ネタ」という「物語」で「笑い」を表現している彼もまた、文学者として大成するやもしれぬ、「可能性」を秘めていたわけだ。

アクセトリー読者の皆様には改めて、
この又吉直樹の受賞した「芥川賞とは何なのか」「文学とは何なのか」ということについて一考してもらいたい。

純文学が生き抜くために

純文学は芸術的な領域を文章によって表現した作品が当てはまる。
明確な評価基準などなく、主に作者自身がそう主張したり、他の文学者や批評家によってそう評価されることで判断される。
対して大衆小説は娯楽性、痛快性というような要素があるものを指す。
多くの人に流行る、というムーブメントは嗜好の多様化によって起きづらくなってしまったが、娯楽の性質に傾倒した作品を大衆小説と呼ぶ形は未だ残っている。

純文学が大衆小説と分化して100年ほどの時が経った。
それほどの時間が経てば、人々の希求する芸術性というものも少しずつ変わっていく。
そもそも小説を通して芸術を見出すという考え方自体が消えてしまっている節がある。
芸術が全て語りつくされる、表現しつくされることは限りなくありえないことだが、谷崎潤一郎や、夏目漱石のような文豪が名を轟かせていた時代と今とでは、小説自体の価値、注目度は大きく異なっている。
その意味で文学賞のあり方も変化しているのではなかろうか。
本を読むというその行為自体がそもそも、人の目に留まらないのだから、純文学などという難解な小説を読もうと思う人自体が少ない。その意味では、大きな話題性をもたらすことが出来る作品に賞を与えよう、という打算で行われている側面が少しはあるのかもしれない。

そう、多くの人に純文学を読んでもらうには、そのような話題性によって価値を見出してもらうことが必要な社会になってしまったのだ。

その一つの結果として又吉氏の『火花』は一つの成功を収めた。
皆さんもご存じのとおり、芥川賞が決まる以前より、彼の小説が掲載された雑誌『文學界』の2月号は、2日で4万部が売れるほどの人気を博し、文學界としては史上初めての重版印刷がなされた。

単行本の初版も124万部を突破しまだまだ全国の書店にて品薄が続くようで、一般認知度の高い芸人×芥川賞という組み合わせは良い意味で純文学への興味を人々に向けさせるきっかけとなったと言えるだろう。

けれど、多くの人が勘違いしていると思うが、芥川賞は作家のゴールではない。
芥川賞を受賞した作家にとって、鬼門となるのは次の作品なのである。

とりわけ又吉氏が、自分自身の経験や業界の辛さを知っていたことで執筆することが出来た内容である「火花」の後にどのような作品を書くのか。どのような作品なら書けるのか。
願わくば一過性の話題にならぬ、コンスタントな創作を続けてもらいたいものである。

これからの純文学が生き残る手段の、一種の投石になるやもしれない。

そして文学の価値が、深まることを願って。

文学は時代遅れの遺物なのであろうか。
答えはNOである、と私は声を大にして叫びたい。
文学の中でもとりわけ純文学とは、人間が誰でも用いることが出来る「言葉」というツールを、芸術へと昇華する作品のことを指す。
それは常に進化し言葉の最先端を担うべき要の存在だと私は考えている。

されど、実際に本を読む、手軽に純文学を読むといったことが次第に世の人々から忘れ去られていっているのも確かである。時代の趨勢に流されることで、かような芸術は風化していってしまうのであろうか。

文学は人に読まれることを待つ受け身の存在でしかない。
だからこそ、いつもは億劫になってしまいがちな紙の頁をめくってみよう。
ここまで付き合ってくれた奇特なACCETORY読者の皆さんならば、きっと文学の魅力に気づいてくれるはずだ。

大地を震わす和太鼓の律動に耳を傾けてみようじゃないか。

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