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浮世絵と写真が似てる??

浮世絵は、ある意味で写真とは真逆のものだ。
写真は対象をそのまま写し取る技術で、言い換えれば写実主義の行き着く果て。

ご存じのように西洋のルネッサンス以降の近代芸術は、ひたすらに写実的であることを追及して発展した。
ところが、19世紀半ばごろ、写真の登場により、安価で素早く、もちろん絵画よりも精密に、現実を写し取ることが可能になった。絵画の写実性を突き詰めることに意味がなくなったのである。

そんな時代、絵画の新たな方向性を探っていた芸術家たちを驚かせたのが、非‐遠近法的で色彩の大胆な浮世絵であった。
ジャポニズムともよばれたそれが、マネやゴッホをはじめとする芸術家に大きな影響を与えたことはよく知られている。

浮世絵は、なぜ西洋的な写実性を持ち合わせることがなかったのだろうか、という疑問は浮世絵をみたものなら一度は感じるはず。
確かに浮世絵には独特の躍動感がある。西洋がとは全く異なる発展を遂げたそれは、西洋の絵画とくらべて何ら見劣りすることのないものだ。
けれども、長い歴史のなかで、西洋の絵画においてそうであるような写実性が生まれなかったのはなぜなのだろうか?

写実主義 -主体と客体の狭間でー

まずはその問いの前に、「西洋画はなぜ写実的なのか」という裏返しの問いを考えてみよう。

西洋画の写実性

西洋絵画の写実性は「遠近法」と「陰影のつけ方」によって支えられている。

例えばこちらはユベール・ロベールという18世紀末の画家の作品だ。陰影を強調し、また遠近法を用いることで、立体感をだして写実的にしているのがわかるはずだ。

遠近法だとか、陰影をつけるだとかいった、西洋画の写実性を担保している絵画技法は、しかしながら西洋においても中世においては無視されてきたものであった。
なぜなら、中世の芸術が宗教、つまりキリスト教に奉仕するものであったからだ。
この時代の絵画は、多くの場合教会の壁に描かれていたものであった。
その役割は、まず第一に、幻想的で美しい絵によって宗教の権威を強化すること、そして第二に文字の読めない人にもわかりやすく、聖書の内容を伝えることにあった。

神の力が、教会の権威が強かったこのような時代、写実性は求められていないどころか、むしろ邪魔ですらあった。
絶対的な神の認識に比べれば、人間の認識なんてものは取るに足りない矮小なものだと考えられていたからだ。
たいした能力を持たない人間の把握した写実が、どうして本当の写実であり得ようか?

高度に発展した古代ギリシャ・ローマの写実主義は、キリスト教における偶像崇拝の禁止もあって、無残に打ち捨てられることになったのである。

科学技術が発展して教会の権威が弱まったルネッサンス頃になると、人間の認識もそんなに捨てたものではないぞ、という話になる。
ここにおいてこそ、強く主観的な絵画技法である遠近法があらわれてくることになるのだ。

遠近法というのは、あなたでも彼でも、もちろん神でもない、他ならぬ「私」が見た世界を描くものだ。
だからこそ、同じ大きさのものでも、遠くのものは小さく、近くのものは大きく見えてくるのである。
そこには極めて力強い「私」という存在が立ち現われてくることになる。

「私」の存在しない浮世絵

それに対して浮世絵には強い主観性のようなものはない。

理由は二つあって、

1.歴史的、文化的に「主体性」「私」が焦点化されることがあまりなかったから。
2.浮世絵師は芸術家というよりは職人だったために、そこまで「個」を重視されなかったから。

1については、よく言われるような「日本人は主張をしない」というステレオタイプに反映されているのと近い。
西洋の思想では常に「主体」と「客体」の関係がクローズアップされているのに対し、伝統的に日本の思想で「主体」や「私」という概念が扱われることはほとんどなかった。実際、人々の意識においてもそうした概念が影響を及ぼすことはなかったはずだ。

2にもこれは反映されている。
当時の浮世絵というのは木版刷りで大量生産されるものであって、決して芸術ではなかったから、浮世絵師も芸術家というよりは職人として扱われることが多かった。
天才的な職人と呼ばれる人はいても、その人は決して天才的な芸術家ではなかったのだ。(浮世絵の芸術性を発見したのはむしろ西洋人であった)
したがって浮世絵には「描き手」の主観性がそこまで入ってこないということになる。

したがって、西洋画や写真が「私」という一点から空間を切り取るのに対して、浮世絵においては地図を描くように平面的に空間を切り取ることになる。

ポスターとしての浮世絵

前述したように、浮世絵というのは一枚一枚肉筆でかかれるものではなく、大量生産される木版画であった。
その役割は、それをみるものに美的感動を起こさせることにではなく、例えば歌舞伎役者なら、その特徴を、富士山の絵なら富士山の特徴をしっかりとらえ、それを伝えることにあった。
つまるところ、浮世絵というのはポスターであったから、それをみるひとにわかりやすくインパクトを残さなければならなかったのである。

その結果としてあの大胆な構図、線の強調、鮮やかな色使いが生まれたのだ、と主張することはあながち間違ってもいないはずだ。

証拠として、浮世絵の後を追うようにして成立した西洋のポスターに、浮世絵からの強い影響がみられることが挙げられる。

上の絵はフランスの初期のポスター。くっきりとした線や人物造形に、浮世絵からの影響が顕著である。
このポスターも写実性というよりは、インパクトを重視して描かれたものである。

浮世絵の色使いが大胆かつはっきりとしたものになったのは、それが木版画によって大量生産されるものであった、というのも理由の一つとして挙げられるだろう。
当然木版画の色使いは肉筆のそれと比べればはっきりくっきりせざるを得ない。

「浮世絵から写真へ」展への期待

かように浮世絵は西洋的な写実性とは、目的の点でもその背景の点でもことなっていることを明らかにしたが、そのような常識を、「浮世絵から写真へ」展がいかに覆してくれるか、今から楽しみである。

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編集部 三宅隆平

脳髄を置いてきぼりにして走る

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