カテゴリ: 大人の嗜みガイド

報道パパラッチ、行き過ぎやりすぎのマスメディア批判という表の顔

主人公はルー(ジェイク・ギレンホール)。金も学も職もない、明日どう生きるかすら定かではない、そういう男だ。
ある日、交通事故の現場に偶然遭遇した彼は、そこでカメラを回す奇妙な男を見つける。その男は事故、事件現場専門のパパラッチだった。それが金になることを男から聞いたルーは、安いカメラ、ぼろい車、ネットで手に入れた知識だけで成り上がっていくが……

まずこの作品はすでに多くの人が指摘しているように、行き過ぎた報道への批判映画だ。
視聴率のためにショッキングな映像を、と要求するテレビ局、そしてどんな手を使ってでも、多少法律を破ろうともライバルを出し抜くためにカメラを回すナイトクローラー(パパラッチ)たち。

同時にまた「ルーのようなやり方で、成功のためには倫理すら踏み外し、部下から搾取しても罰を受けず成功できてしまうのがハイパー資本主義の現代」と監督が語っているように、この映画はブラック企業と呼ばれるものへの批判もつよく内包している。

だが一方で、そうした過激な映像も、企業のブラックさもある意味では僕らが望んだもの、僕らの欲望の体現である。僕らが望んだ異常な映像は、しかしながらその異常性を濾過されて、僕らのもとに届くことになる。



予告編の出来も素晴らしい。

ナイトクローラーでサイコパスを疑似体験

そうしたマスメディア、ブラック企業批判を、我々の心に突き刺すために、監督はこの映画をサイコパスの疑似体験映画にした。
通常のやり方で批判しても、意味がないからだ。
普通の映画にしたとして、たしかに観客は視聴後数時間くらい、「なんてけしからんことがこの世界にはあるんだ」と怒りを感じるかもしれない。
でもそれは精々が数時間だ。他人事でしかないのだ。
観客たちは、映画に衝撃を受けながらも、ふかふかのシートとスクリーンに守られてぬくぬく過ごすことだろう。ナイトクローラーたちが撮ってくる衝撃的な事件映像を、朝食のシリアルを食べながらみるのと全く同じように。

だからギルロイ監督とギレンホールは完全に別のアプローチをとった。
他人事だと安心していられないように、僕らを狂気の中に引きずり込むことにした。
映画館の暗闇の中で、ギレンホールの双眸がぎょろりと僕らを見つめるとき、もはや僕らは居心地のよい映画館で1800円のチケットの元を取ろうと眠気に耐えているだけではすまされない。


これはサイコパスの体験映画だ。これを観たものは、実際にサイコパスに接しているような恐怖を受けるはずだ。それは単なるホラー映画的な恐怖ではない。
電車で隣に座っている奴が、昨日ライブハウスで仲良くなった奴がサイコパスかもしれないという恐怖だ。
いやそれどころか、もしかすると明日自分がそうなっているかもしれないという恐怖だ。

サイコパスを描いた映画なんてものは古今東西山ほどある。「時計仕掛けのオレンジ」や「羊たちの沈黙」、ヒッチコックの「サイコ」など枚挙にいとまがない。
そうした映画と、この「ナイトクローラー」が決定的に違うのは、これまでの映画が、観覧型のものだったのにたいして、「ナイトクローラー」が体験型のものだからだ。

「時計仕掛けのオレンジ」のアレックスにせよ、「羊たちの沈黙」のハンニバルにせよ、主人公の狂気、サイコパスっぷりは僕らの実感からはかけ離れたものでしかない。
たしかに彼らのやっている行為はおぞましくて、目を背けたくなることすらある。けれども僕らと彼らの間には、映画のスクリーンという分厚い膜があって、それはちょうど動物園で檻に入っている猛獣を観るようなものでしかなかった。

アレックスやハンニバルといった人物たち、そして彼らの快楽的な、時にはスタイリッシュですらあるバイオレンスは、スマホで動画を観ながら通勤し、お昼ご飯を会社の近くのコンビニのパンで済ませるような僕らの生き方とは全く縁がないものだ。
だからそうしたバイオレンス、スクリーンという膜で隔てられた向こう側にある狂気は、ちょうど檻の向こう側でライオンが咆哮するような恐ろしさを与える。

でもこの映画はそうじゃないんだ、と主張する。僕らと狂気の間には、ひょいっと超えられる程度の小さな溝しかなくて、もしそれを超えてしまったとしても、たぶん超えたことにすら気づかないんだ、という事実を無理やり叩き込んでくる。


ルーは、決して快楽殺人者でも強姦魔でもない。彼は、不法侵入だとかスピード違反だとか、その程度の法は破るけれども、殺人とか放火のような罪を直接犯したりはしない。
どこにでもいる、とまでは言わないけど、隣の家の住民がそうだったとしてもおかしくないような、そんなリアリティがギレンホール演じる主人公にはある。

そんな身近さが、まず第一の仕掛けだ。
こうした現実味、身近さによって、僕らは自分自身との接点を維持し続けたまま、ルーに感情移入することができる。主人公の行為を、自分事化することができる。

そして主人公の行為がだんだんとエスカレートしていくのもポイントだ。
物語の序盤、彼はちんけなコソ泥でしかない。今日一日を生きるために、金網をきりとって屑鉄屋に売る、社会の最下層の人間でしかないのだ。
安いカメラを手に、ナイトクローラーとして働くようになってからもそれは変わらない。
事故現場に駆けつけ、被害者に近づきカメラを回す行為は、なるほど確かに決して褒められたものではないし、嫌悪感すら抱くだろう。
だがその嫌悪感は、理解できないものに対する、圧倒されるような、麻痺するような恐れではない。
公衆便所で虫を見つけたときみたいな、侮蔑や気持ち悪さに基づく嫌悪感だ。
だから、その嫌悪感は僕らの日常と地続きのところにある。

物語が進むにつれて、主人公の行いはだんだんとエスカレートしていく。
興味深いのは、主人公が踏み越えてはならないラインを踏み越えていくあたりで登場する助手の存在だ。
ルーが本格的に事業をやっていくにあたって雇うこのパキスタン系移民とおぼしき青年は、正常な倫理観、価値観の持ち主。いわば映画を観ている僕らの視点の代理人だ。

主人公が踏み越えてはならないラインを超える過程で、この助手は、正常な僕らと異常な主人公の橋渡しをする。狂気に踏み込んで、殺人さえも映像のために看過する主人公を、僕らは助手の視点で体験するのである。

平然と倫理道徳を踏みにじる主人公の姿に、当初の侮蔑的嫌悪感は、おぞましさ、恐怖へと変わっていくはずだ。だがなお、その恐怖は助手の存在によって僕らと紐付けされている。

物語の結末がどのような結末を迎えるのか、そしてそれが何を意味するのか、注意深く観てほしい。

製作:2015年,アメリカ
日本公開:2015年8月22日
上映時間:118分
原題:『Nightcrawler』

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編集部 三宅隆平

脳髄を置いてきぼりにして走る

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